原画提供:故 井上潤一(南海電鉄OB)
NO.01 高野山は弘法大師空海によって、弘仁七年(816)に真言密教の根本道場として開創され大正四年にはせん千百年を迎えました。
大正四年四月一日〜五月二十日まで高野山に置いて高野山 開創千百年記念大法会が執り行われました。(高野山真言宗 総本山金剛輋寺より金棒を先導に大会堂に向け出発する管長猊下の輿)
NO.02記念大法会のため建設された大会堂より金堂に至る廊下を金堂へ向かう職衆。
NO.03大会堂より金堂に向かう管長猊下。
NO.04金堂内における記念大法会。
NO.05本尊薬師如来 秘仏 脇土 右端より普賢延命菩薩 不動明王、金剛薩捶 金剛王菩薩 隆三世明王 虚空蔵菩薩、これらの金堂安置本尊諸尊像は高野山 開創当時の造像で何度かの金堂焼失の時にも救出されたが、昭和元年に惜しくも焼失した。
NO.06明治三十六年(1903)七月大師教会本部が設立され金剛峯寺内に大師教会本部が設けられました。
NO.07記念大法会の事業として大正三年本屋から前面に外陣部が増築され、建物正面の屋根に破風などが設けられました。(霊宝館だより第92号)
NO.08記念大法会を前に大正三年十一月十六日奥之院御廟橋改築工事が終了し、渡初式が行われた。御廟橋架朁 施主 大阪水野興兵衛。
NO.09記念大法会を前に山内道路は全面的に改修工事が行われ、一の橋も5m下流に架け替えられた。
NO.10高野山 開創千百年記念大法会の事業として建築された大師教会 大正四年四月十五日落慶供養。
NO.11高野山 開創千百年記念大法会の事業として奥之院信徒休憩所の頌徳殿を建築。
NO.12高野山 開創千百年記念大法会の事業として奥之院不動堂(護摩堂)を頌徳殿の横に移転して前庭を取り拡げ、御供所は門の方向を替え別に控室一棟を増築。
NO.13高野口駅を起点とし九度山、椎出(高野下)を経由して高野山に至る新高野街道は大正二年 県道となり、大法会に間に合わせる形で大正三年椎出より女人堂に至る道の一間半2,7m改修工事が完了、引き続き九度山町、高野口長間二間半4,5m拡張工事が大正四年三月三十一日完成した。極楽橋の元はここより100m上流に架けられていたが大法会を前に不動坂の大半のルートを変更する大改修が行われ、極楽橋も新しく朱塗橋として架け替えられた。大正三年十一月二十九日開通式が遂行された。
NO.14極楽橋を渡り不動坂にかかる48曲がりあり、故に一名いろは坂と伝う。峻坂にして人々玉の汗を流し杖の力を借りてよじ登る、九十九折の急峻な 不動坂も大正三年新しいなだらかな道に変更された。
NO.15参詣者は高野登山鉄道から(大正四年四月三十日大阪高野鉄道と改称、南海電鉄高野線)大正四年三月十一日汐見橋〜橋本間(1時間40分)を全通したことにより従来の難波より和歌山市駅経由、高野口間の所要時間(3時間50分)より汐見橋経由高野口間が2時間も短縮され便利になった。高野口駅よりも新高野街道を女人堂まで婦女子も容易に登山できるようになった。(改訂 九度山町史)
NO.16高野山で大正三年十一月青島陥落を機として日独戦の戦役追悼法会が営なまれ、大正四年四月十七日金堂にて徳川家康公300回忌法要がおこなわれた。水向け地蔵尊の横に(為戦死病歿一切聖霊皆成仏道也)(徳川家康公300回忌)の塔婆が建てられている。
NO.17明治十九年五月一日(1886)興山寺跡(金剛峯寺別殿、奥殿)に古義大学林が開設される。古義中学林も開校される。明治四十四年(1911)興山寺裏山の行人方東照宮の登り口のあった門を高野山大学の正門として移築。大学林はその後名称変更の後大正四年十月真言宗高野山大学と改称。
NO.18大正五年四月十一日より五月十日までの三十日間臨時大法会が執行されることが書かれた大立札が女人堂の前に立つ。開創千百年記念大法会は五十日期間参拝者は47万4260人であった。女人堂は山内でも高いところにあり参拝に不便なため地盤を掘り下げて道路と平行にした。
NO.19高野山 開創千百年記念事業の一つとして霊宝館は大正九年九月三十日に竣工し大正十年三月一日開館。
NO.20金堂は弘仁十年(819)落慶。その後の落雷などの火災で焼失。満延元年(1860)金堂は弘仁十年(819)落慶。その後の落雷などの火災で焼失。満延元年(1860)再建の14間4面銅瓦葺2棲殿 昭和元年午前6時金堂より失火、金堂、六角経蔵 孔雀堂、茶所、等を焼失。
NO.21焼失前の金堂正面。この金堂は昭和七年に再建され、昭和九年四月二日盛大な落慶供養が行われた。
NO.22六角経像は平治元年(1159)鳥羽天皇の皇后 美福門院が鳥羽天皇の菩提を弔うため紺紙金文字一切経納める経蔵として創建された。その後二度の大火で類焼するが明治十七年(1884)輪転の構造(基壇の上に把手をつけてそれを押せば上部が回転する)として再建。回せば一切経転読のご利益があると言い伝えられている。昭和元年類焼。
NO.23孔雀堂は後鳥羽法皇の御願により正治二年(1200)創建。本尊は快慶作の孔雀明王。その後数度の類焼。嘉永五年(1852)三月再建、昭和元年類焼。
NO.24焼失前の六角経蔵と孔雀堂、この六角経像は大阪南地 大和屋坂口祐三郎氏の一建立寄進により昭和七年に再建され九年六月四日落慶法要が執り行われた。孔雀堂は弘法大師御入定千百五十年御遠忌大法会の記念事業として高野山親王院中川善教前官御房の一建立寄進により昭和五十九年 准胝堂の西隣りに再建され四月三日落慶法会が執り行われた。
NO.25高野索道は高野下と大門と結ぶ索道で6,4kmの間に鉄柱43基を建て太さ 24mmの静止索を渡して100個の搬器をつるした。機材は全てイタリヤ製で旧通天閣建設技師のドイツ人カタネオを招いて完成させた。我が国最初の複線楯環方式の索道で明治四十五年(1912)六月二十三日開通式が行われた。今ままでは馬によって山上へ運ばれていた荷物が索道使えばわずか1時間20分で山上に着き大量の物資が輸送できるようになった。一器の積載量は150kgで一日約20トンの物資を運んだ。
NO.26高野山一番石碑 秀忠の室浅井氏の為に大納言の建てる 虚高さ参丈墓石畳敷山内第一の大石塔なり。
NO.27高野山 御影堂(特別保謹建造物)左に三鈷の松
NO.28大師教会 開創千百年記念建造物本宗の布教本部なり。
NO.29御影堂及び三鈷松 本尊 弘法大師は真如親王御筆大師自ら開眼し給う松は大師唐士より投げ給う三鈷掛けれど傳える。
NO.30一山の門の高さ ニ十三間 山最高の建築物 比虚より四国の海面を望む絶景賞すへし。
NO.31高野山一切経蔵(石田三成慈母菩堤の為に建造)
NO.32朝夕6時を伝える(6時の鐘)大正四年福島正則の建立由来は其銘に。
NO.33写真は白黒で後塗料にて人着色されたものである。
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